比石館跡

 館の名前は石崎の古名・比石(ひいし)、アイヌ語でピツウシ(石の多いところ)に由来するといわれています。石崎の集落を東西に分かつ石崎川の河口南側に突き出た岬の上に神社と灯台が立っています。この岬が比石館跡です。
 この館は、北海道最古の文献である「新羅之記録」(しんらのきろく)に15世紀中葉に畠山氏の末孫厚谷右近将監重政(あつやうこんのしょうげんしげまさ)が居た道南12館の一つです。長禄元年(1457)のコシャマインの戦いで陥落したと書かれていますが、近年の発掘調査で色々なことがわかってきました。
  1. 平坦部から出土した陶磁器の年代は、コシャマインの戦い当時の15世紀中葉ではなく、15世紀末葉から17世紀初めであること。
  2. 岬中央部のくびれ状の堀といわれている箇所よりもさらに岬先端側にもう1条堀が発見され、また、堀埋没後の柱穴も発見されており、2期以上にわたる使用期間があったことが考えられること。
  3. 空掘東側から土葬墓2基、火葬墓1基、さらに礎石の建物跡が発見されたこと。土葬墓は、出土遺物や土層の堆積状況から16世紀代、火葬墓並びに礎石建物跡は、17世紀代であること。館後方部に墳墓を作る形態は勝山館跡と同様であること。
 これらのことから、コシャマインの戦い当時はこの館は存在せず、16世紀の勝山館が存続し栄えていた時期に勝山館と並存していたとも考えられるようになりました。
 しかし、その一方では石崎川を挟んだこの館の対岸の海浜で、14世紀代の珠洲擂鉢が出土したことから、この石崎にコシャマインの戦い以前から、人々の生活が営まれていたことが考えられるようになりました。
 厚谷家はその後、代々松前藩に仕えており、松前藩の記録である「福山秘府」(ふくやまひふ)には6代目厚谷貞政が寛永14年(1637)福山城火災の折、当時の松前藩主であった松前公廣を救ったとの記述があります。

面積  20,000平方メートル



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