上ノ国に伝わる伝説
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中世からの歴史をもつ上ノ国町にはいくつもの伝説が伝わっています。
なにげなく傍にある山や海、道々の木々にこめられた歴史の想いをご紹介します。
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■伝説「神の道」 |
大澗ノ崎には窓岩があり、この穴に上が階段のようになっていて「神の道」と呼ばれている。
この「神の道」から夜更けに不思議な燈が上がるが、これはいわゆる「龍燈」で、海の神
「龍神」が太平山の山の女神に逢いに、「龍燈」となってシャンシャンと八幡牧野を通っていくという
伝説がある。数年前まで実際に沖合から「龍燈」を見たという人がいた。
また、アイヌが太平山の洞窟に犬を放つと、犬は大澗近くに現れたといい、小森の太平山の
噴火口といわれている洞窟には満潮の夜には小蟹が戯れ、海草が付着していたという話もある。 |
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■首切りの松 |
愛宕神社の傍に木古内越えの旧道のあとがある。明治二年ここで官軍と幕軍の武士が遭遇し、
たちまち斬り合いとなったが、腕の立つと思われる方が刀をひき「個人的恨みはない、無益な
殺生は止めよう」と道のかたわらの若松の頭をチョン切り鍔音もさわやかに刀を納めて、悠々と
立ち去ったという。今、里では”首切りの松”とよばれる老松が旧街道のそばに枝を張っている。 |
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■逆さ水松 |
天文十七年(1548)南条越中守広継は、勝山の城代となった。広継の妻は四代秀広の
長子であったが女であるため家督を継げず、聟の基広に家をつがせようとしたが季広に
討たれたため、弟の舜広、元広(季広の長男・次男)に近習を使って毒をもらせたことが露顕し
自殺させられた。
広継は固く身の潔白を誓い、礼服に身を固め棺に入り、自ら命を絶ったがその時、一本の
水松を与え棺の上に逆さにいけさせ「水松が根付いたら身に悪心ない証であり、三年たっても
遺骸が腐っていなかったら、それこそ潔白のあかしである」と遺言し、節を抜いた青竹で
呼吸しながら鉦を鳴らし経文を読誦した。鉦の音と読経の声は三週間も続いたという。
三年たって墓を掘る者はなかったが、その水松が成長し、さかさオンコになったのだという。 |
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■大蔵鰊伝説 |
大蔵鰊伝説は、松前諸伝説中でも名高い伝説で、鰊神の伝説中第一とされるものであった。
ある年鰊が全く郡来ず里の人たちが、「このままでは何を食べて生きよう」と嘆いていた。
「私が神に祈って鰊を呼びよせよう。その代わりとれた時には私に少しずつわけて下さい。寺の
修理をしたいので。」と秀海が言ったので、里の人はそれはたやすい願い事だと約束をしました。
それにしても旧暦5月も半ば、漁期を50日も過ぎた今どんな祈りも効果はなかろうというのにも
「時期はずれに来てこそご利益とというもの」としめ縄を張り廻らし食物を絶って一心に祈った。
七日もたたないうちにしかべ(アホウ鳥)が汐に集まり、鴎が海面を覆い鯨が大波を起して汐を
吹き上げる。これこそいつもと同じ鰊の郡来る前兆である。海の色は真白になり例年以上の大漁に
多勢の人が集まり喜びあった。
かの性曲りの男が「今年は季節が遅れていたのであって生山伏のご利益なんかではない」と
お礼も出さなかったため秀海と争いになり、遂に秀海は死んでしまった。
このことがあってから里の人たちは秀海の御霊を若宮として祀り鰊神と言うようになった。又六月頃
秀海の庵のあった辺りに二・三匹の鰊が打ち上げられると大蔵鰊と呼んだ。
1570年頃から大蔵法印秀海が上国寺の三代目の住職となり八幡宮の別当も兼ねた。
上国寺過去帳は秀海を慶長三年(1598)没とし、八幡宮神主小滝長門の文政五年(1822)
神社書上の国若宮社を慶長三年創立とする。勝山館の中で最も多く出土する魚の骨は鰊である。
この頃既に大切な食料であったことが知られる。
この辺りを大蔵屋敷と言い若宮社は国道の南側にあった。今は八幡宮に祀られている。 |
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教育委員会社会教育グループ
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