北の中世を旅する・・・

上ノ国街道マップ

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   (歴史と文化を誇る観光開発協議会)

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北海道南部から東北北部には「館(たて)」と呼ばれる遺跡が数多く存在します。
海や河川、沼、沢に面した丘陵地に立地する中世の館跡から、さまざまな遺構やおびただしい遺物が掘り出されています。地下に埋もれていたモノたちが、この北辺の地に「豊かな中世」が営まれていたことを雄弁に語り始めています。中世の上ノ国には、箱館、松前と並ぶ代表的な港があり、日本海北方交易の中心拠点でした。
鎌倉時代、"東夷の酋長"安倍氏の末裔を自認する津軽の豪族安東氏が幕府から蝦夷管領を命ぜられていました。

15世紀にはいると、小山隆政(こやまたかまさ)、蛎崎季繁(かきざきすえしげ)が渡道し、花沢館を拠点として和人支配地の拡大を図っていました。当時各地の拠点として道南に12以上の館があったという。館を中心に次第に勢力を蓄えた各地の館主は、下之国(しものくに)、上之国(かみのくに)、松前の三守護職の支配下に置かれ、箱館、松前、上ノ国を拠点とする三つの商品流通圏が成立しました。
この頃、夷嶋(えぞがしま)の各館主とアイヌとの交易関係を統轄していた安東氏が南部氏との抗争で十三湊を追われ、夷嶋へ敗走してきました。このような情勢はアイヌと和人・館主との交易関係を変え、大きな変動が起こりました。

長禄(ちょうろく)元年(1457)コシャマインの率いるアイヌの大軍が12の館を次々と攻め落とし、上磯茂別館と、花沢館が残るだけとなりましたが、花沢館の館主蛎崎季繁の客将武田信広等の活躍で、和人社会は壊滅の危機を脱しました。信広は道南の各館主の信を得て、蛎崎家を継ぎ、和人勢力の指導者という地位を確保するに至りました。
永正11年(1514)二代光広は松前に拠を移し、直ちに秋田檜山の安東氏に使者を送って代官としての地位を認められ、名実ともに夷嶋の現地支配者となりました。

こうしてこの一帯は、安全に交易を行える地として、慶長(けいちょう)年間(1596~1614)の初め頃まで、日本海側における政治、経済、軍事上の拠点として重要な役割を果たし殷賑を極めました。

夷嶋を統括した蛎崎氏は五代慶広(よしひろ)のときに、豊臣秀吉、徳川家康によって夷嶋々主と認められ、安東氏から独立し、姓を「松前」と改めました。松前藩が成立し、延宝6年(1678)桧山番所が上ノ国から江差に移るとともに、上ノ国の政治、経済、文化的な役割は後退していきました。
 

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