WEB町長室

「鬼手母心」

2006年8月11日

昨今、社会の基軸が狂ってしまったために、親が子を殺し、子が親を殺すという一昔前までは考えられなかった事件が、連日マスコミを賑わしております。
切っても切ることができないと思っていた親子の絆。
その親子の絆が、いとも簡単に切られる社会に変貌してしまいました。
これには様々な要因が考えられますが、町政を預かる者として、その責任の一端を感じております。
先般、このような忌まわしい事件を払拭するようなお話に出会いました。
恥ずかしながら、読んでいるうちに泣けてきました。
「鬼手仏心」という言葉がありますが、このお話にタイトルを付けるとすると「鬼手母心」でないでしょうか。
 少年は両親の愛情をいっぱいに受けて育てられました。殊に母親の溺愛は近所の物笑いの種になるほどだった。
 その母親が姿を消した。庭に造られた粗末な離れ。そこに籠もったのである。結核を病んだのだった。近寄るなと回りは注意したが、母恋しさに少年は離れに近寄らずにはいられなかった。
 しかし、母親は一変していた。少年を見るとありったけの罵声を浴びせた。コップ、お盆、手鏡と手当たり次第に投げつける。青ざめた顔。長く乱れた髪。荒れ狂う姿は鬼だった。少年は次第に母を憎悪するようになった。哀しみに彩られた憎悪だった。
 少年6歳の誕生日に母は逝った。「お母さんにお花を」と勧める家政婦のオバサンに、少年は全身で逆らい、決して棺の中を見ようとはしなかった。
 父は再婚した。少年は新しい母に愛されようとした。だが、だめだった。父と義母の間に子供が生まれ、少年はのけ者になる。
 少年が9歳になって程なく、父が亡くなった。やはり結核だった。
 そのころから少年の家出が始まる。公園やお寺が寝場所だった。公衆電話のボックスで体を二つ折りにして寝たこともある。そのたびに警察に保護された。何度目かの家出の時、義母は父が残したものを処分し、家をたたんで蒸発した。
それからの少年は施設を転々とするようになる。
 13歳の時だった。少年は知多半島の少年院にいた。もういっぱしの「札付き」だった。
 ある日、少年に奇跡の面会者が現れた。泣いて少年に棺の中の母を見せようとしたあの家政婦のオバサンだった。オバサンは、なぜ母が鬼になったのかを話した。死の床で母はオバサンに言ったのだ。「私はまもなく死にます。あの子は母親を失うのです。幼い子が母と別れて悲しむのは、優しくされた記憶があるからです。憎らしい母なら死んでも悲しまないでしょう。あの子が新しいお母さんに可愛がってもらうためには、死んだ母親なんか憎ませておいたほうがいいのです。そのほうがあの子は幸せになれるのです」 少年は話を聞いて呆然とした。自分はこんなに愛されていたのか。涙がとめどもなくこぼれ落ちた。札付きが直ったのはそれからである。
 作家、西村滋さんの少年期の話である。