20歳(ハタチ)を祝う会祝辞
2025年8月26日
8月15日、上ノ国町20歳を祝う会が新成人21人出席のもと開催され、私は次のような祝辞をいたしました。毎回、20歳を祝う会に出席して感じることは、今の新成人は私たちの頃と比べると、相当しっかりしているということです。
<20歳を祝う会祝辞>
今日のこの時間、私にとっても皆さんにとっても永遠に帰ってこない貴重な時間ですから、皆さんが20年後30年後であっても思い出に残るようなお話にしたいと覚悟を持ってここに立っておりますので、皆さんも真剣に聞いて下さい。
私の弟の息子は、高校3年の12月、卒業間近でがんと診断されました。
当然のごとく、親戚一同相当なショックを受けましたが、弟夫婦は何としても直してやりたいという一心で、テレビや新聞、雑誌などで紹介されていたあらゆる治療を受けさせました。
その甲斐あって、1年間治療に専念した後大学に進学することができましたが、がんを完治させることはできなく、甥は皆さんと同じ21才という若さでこの世を旅立ちました。
周りの友達が青春を楽しんでいる姿を見るにつけ、自分も生きたくて生きたくてという思いのなかでの死でありましたので、相当無念だったろうと思います。
しかし甥は、治療中その悔しさを誰にぶつけることもなく、周囲を気遣って常に明るく振る舞っておりました。
私にも何回か、「がんになんか絶対に負けないで必ず生きるんだ」という想いのメールを送ってきておりましたが、今思うとそのメールは、私に送ったのではなく、自分を励ますために自分宛てに送っていたつもりのメールであったと思っています。
さて、なぜ私がこのおめでたい席で甥の話をしたかといいますと、誰でも知っていることですが、どんな人間も必ず死ぬ。
そして、その死はいつ訪れるか誰も予測できない。
そのため人生は、一度きりよりないということを、改めて伝えたかったんです。
私に言わせると、一度きりよりない人生において、お金や地位や名誉は何の価値もないと断言できます。
それでは何が必要か。
私の答えは、自分だけの人生を、思いっきり生ききることができるかということです。
私の甥は、空手をやり、サッカーをやり、勉強もそれなりに頑張ったそうなので、21才という若さでなくなってしまったことは無念だとしても、歩んだ人生に後悔はなかったと思っておりますが、皆さんは、自分の人生を生ききっていると胸を張って言えますか。
私は、「工藤昇を生きる」という言葉を紙に書き、毎日それを読んで人生を生ききろうと努力しています。
では、生ききるということはどういうことかというと、人生の密度を高めるということであり、人生の密度を高めるということは、時間の密度を高めるということに尽きます。
わかりやすく言うと、時間は帰ってきませんが、ゲームをやっている1時間も、何かに真剣に取り組んでいる1時間も同じ1時間ですが、将来を考えると大きな違いのある1時間となり、これが時間の密度の違いとなり、最終的には人生の密度となります。
20歳を祝う会は、大人の仲間入りの儀式でありますが、今ここで皆さんに問います。
ひょっとすると皆さんは、自分一人でここまで生きてきたと思っているのではないでしょうか。
皆さん知っているとおり、動物の赤ちゃんは生まれてすぐに歩きますが、人間は弱い動物で歩くには1年もかかります。
私もこどもの親ですが、子どもが生まれて10ケ月頃になり四つん這いでハイハイできるようになると親は大喜びし、生後1年でよちよち歩きができるようになると、本来歩くのが当たり前のはずなのに、またまた親は大喜びをします。
皆さん思い出して下さい。
皆さんが子どもの頃、少し熱が出たり、咳が止まらなかったりなどすると、親は悪い病気ではないだろうかと心配で心配で、寝ないで看病したこともあったと思います。
遠足や運動会。
お母さんは、どんなに忙しくとも朝早く起きて、皆さんのために手作りの料理や弁当を作ってくれました。
これは全部親の無償の愛なんです。
皆さんは、これまで一人で生きてこれたのではなく、生かされてきたんです。
今日も後ろの方にはお母さん方が出席していますが、きっと皆さんの小さい頃を思い出しながら、皆さんの立派な姿を見ていることと思います。
ですから、20歳を祝う会は親への感謝の日だと思って、会が終わったら必ずお母さん方に「今まで育ててくれてありがとう」という感謝の言葉を言って下さい。
それが大人の仲間入りの言葉であります。
おめでとうございます。