全体を観る
2025年7月14日
伊達政宗は、千利休の千貫目で買った茶碗を眺めていたときに、手元が狂って落としそうになった。政宗は、あわてた。
千貫目の茶碗を割ってしまったら、千石を海に捨てるようなものだ。
「ああ、落とさなくて良かった」そう思った瞬間、政宗は、自分の心のいやらしさに気づいた。
百戦百勝してきた武将が、茶碗一つに振り回されている。
それも欲ぼけして、千貫目だから大切にしなくては・・・などと、とらわれている。
「この政宗ともあろうものが、こんな茶碗一つに振り回されるとは、恥ずべきことだ。見下げた根性だ。この茶碗め!」名物茶碗をにらみつけるが早いか、右手に握りしめて、高くかかげ、驚いてあわてふためく小姓たちの見ている前で、庭の敷石に「バシッ」と叩きつけたのである。
何か問題が発生すると、まるで虫眼鏡で拡大しているかのように大きくとらわれてしまう自分。
後日振り返ったら、あんな小さなことに何で右往左往したのか恥ずかしくなることがあります。
「全体を観る」、「本質を観る」、「長いスパンで観る」ことを思考の三原則と言うそうですが、私の経験上、目の前の事象にとらわれないためには「全体を観る」ことが肝要かと思われます。